江戸期には性的な様々な見世物興行が行われていました。
しかしながらその記録を資料より辿ろうとすると、思いのほか纏まった情報が少なく、
様々な書籍などの媒体から探し、細々と記録をかき集めるほかありませんでした。
この記事では江戸~明治期の性の見世物興行に焦点当ててきます。
各地で行われた「やれ吹けそれ吹け」とは?

絵師不詳『花いかだ』立命館アートリサーチセンター アイキャッチ画像同じく三味線の囃子とともに披露する見世物
性的な見世物として広く知られているものに「やれ吹けそれ吹け」という見世物があります。
この見世物を簡単に説明すると、客はお金を払って小屋の中に入ると女性が着物の裾を開いた状態でステージに座っています。
客は竹筒を一生懸命に吹いて、女性の股間にかかっている布を吹きかけた息で布をめくって楽しむという、まあなんとも(;^_^A な遊び。
「やれ吹けそれ吹け」も行われた記録がいくつか残っています。
『見世物雑志』は小寺玉晃による寄席や見世物興行の記録であり、
この書物によると文政五年(1822年)三月より名古屋大須門前にて、やれ吹けそれ吹けの見世物が行われました。
同月同所(※三月、大須門前を指す)にて、女根を火吹竹にて、見物ニ吹せる見せ物有。 木戸代四文ニて入、不笑(わらわず)真顔にて吹ハ、 何やらくるゝとやら。其囃子ニ、ヤレフク〳〵、ソレフク〳〵〳〵、ドジコ〳〵〳〵コ、 右しハらくの内有之候処、御停止ニ相成。 |
火吹竹でフーーーっと女性器めがけて吹いて、笑わずにいたら何か景品もらえるようなのですが、なにが貰えたかが一番気になります。
この見世物は、おそらく風俗上よろしくないということでその後に停止をくらったようです。
江戸後期に記された『守貞謾稿(もりさだまんこう)』巻二十六の「正月十日 大坂南今宮村戎神社詣」の項に、
女性の性器の見世物についての記述があります。
又、今日、官倉辺ノ野外ニ、席張ノ小屋ヲ造リ、婦女、玉門ヲ出シ、竹管ヲ以テ、観者吹之ノ観場二、三所アルコト、恒例ノ如シ。 又、長町ハ、人家相連ルト雖(いえ)ドモ、徃還、心斉橋通ノ十分ノ一トス。 是、乞丐住家多ク、自ラ不浄ナル故也。 陰門ヲ観物トスルコト、大坂ハ、此両日ノミ、江戸ハ、両国橋東ノ小屋ニテ、年中行之也。 |
大坂では正月九日十日に、竹管で女性器に吐息を吹きかける見世物が行われていたようです。
江戸の両国橋東の小屋では、年中この見世物が行われているとあり、この見世物にある程度の集客があったようです。
『守貞謾稿』後集巻二の「見世物」の項にも、同じくこの見世物についての説明があり、
小屋の中の様子や性器を見せる女性の容姿について書かれています。
大坂正月十日戎ニハ、難波官倉ノ辺ノ野辺ニ、莚囲ノ小屋ヲ造リ、中央ニ床ヲ置キ、床上又胡床等ヲ置キ、若キ女ニ紅粉ヲ粧サセ、華ナル古褂ヲ着セ、古ノ胡ニ腰ヲ掛サセ、女ノ背腰以下板壁ニテ、木戸外ヨリ女ノ背ヲ見セ、髪飾多ク、褂ノ裾ヲ右ノ板壁ニ掛ケ、美女ヲ画テ、招牌ヲ木戸上ニカケ、八文計ノ銭ヲトリ、女ノ衣服裾ヲ開キ玉門を顕シ、竹筒ヲ以テ吹之時、腰ヲ左右ニフル。衆人ノ中吹之テ笑ザル者ニハ、賞ヲ出ス。 右の見世モノ、他日ハ稀也。 江戸ハ両国橋東ニ、年中一二場在之。小屋及女ノ扮同前。 或ハ片輪モノ、因果娘、蛇遣ノ類、専ラ陰門ヲ曝テ見世物トス。是亦専ラ八文。 三都トモニ、右ノ女濃粧ヲナシ、髪ヲ飾テ、背姿甚美ナレドモ、其面ハ姥婦多ク、稀ニハ中品ノ女モアリ。又、中ヨリ美二近キモアリ。 |
『守貞謾稿』の説明では、小屋の中に床を置き、化粧をした女性に派手な着物を着せて腰かけてもらいます。
小屋の外からは髪飾りのついた後頭部や着物の裾が見える状態です。
小屋には美女の看板が描かれており、きらびやかな女性の後ろ姿を見た通行人はそんな顔なのか、どんな身体なのか気になる次第です。
客は八文ほどのお金を払い小屋へ入ると女性が着物の裾を開き、客が竹筒で女性の股めがけて息を吹くと女性は腰を振り、
客がこれを見て笑わなければ賞がもらえる見世物です。
『守貞謾稿』にはこの見世物の女性の化粧は濃く、後ろ姿は美しいが顔は「姥婦」が多いと説明しています。
稀に中品の女性もいるが中より上に近い容姿のこともあると書かれているのですが著者の主観でしょうか。
この書物には、大坂と江戸のにおけるこの見世物の開催日や小屋の内部や女性についてまで詳しく書かれているため、
もしかしたら著者はこの見世物が好きだったのかしら…と想像してしまいます。
『守貞謾稿』の説明だけだと見世物の内容をイメージしにくいのですが、この見世物の様子がわかる図が艶本『開談遊仙伝(かいだんゆうせんでん)』(文政十一〈1828〉年)にあります。

歌川貞重『開談遊仙伝』(文政十一年)国際日本文化研究センター
陰門の見世物の看板が掲げられた小屋の前では呼び込みをする男性がおり、
女性の着飾った後ろ姿や、壁に垂れた着物の裾で通行人は何の見世物なのか、わかるようになっています。
小屋の前には子供たちもおり、文献に記載された場所からも、この見世物の小屋はひっそり人目に見つからぬよう隠されて行われていたわけではなかったのだと思います。

歌川貞重『開談遊仙伝』(文政十一年)国際日本文化研究センター
「それ/\もつと きつゥく おふきよ」と言いながら、客たちは尻を振り回したり陰部をすぼめたりして動かしているところを見て楽しんでいます。
客は「これはたまらぬ いつみてもわるくない」と言う常連客もいたり、
「ハテとんだ みせものだ アきがわるくなつたわハへ」と見世物でムラムラしてしまった客もいたり、小屋の中は笑いに満ちています。
図を見る限りでは、たしかに子供も通るような場所にこのような見世物の営業があると風紀を乱すことは想像できます。
四壁庵茂蔦氏の著書『わすれのこり』(明治十七年〈1884年〉)には「可恥見世物(恥ずべき見世物)」として
「ヤレ吹けソレ吹け」ではなく「ヤレつけソレつけ」という見世物について述べられています。
この見世物は両国に小屋を建て、若い女性が前をはだけ、ある一人が陰部を現し先端に赤い布切れでつくった男根を模したものをつけた竹の棒を持ち、女性の陰部を突く真似をする。
女性は「やれ突け、それ突け」と言いながら踊り、「当ててみるなら当ててみんか」と言い、三味線のはやしに合わせて腰を振る見世物です。
この見世物に関して著者は、多くの人々に陰部をさらすなどして身体を使い、金を稼ぐことが出来る女性に対し嘆きながらも「得である」と述べ、
「逆に男が舞台に立てば誰が金を払って見るものか」と書いています。
「得」ならばなぜ題を「可恥見世物」にしたのか、と少し嫌味を感じます。
冷静に考えて女性を舞台に立たせて金を稼げる見世物の小屋の主人のほうが、股ぐら見せて腰振らなくていいし、よっぽど得ではないでしょうか。

平賀源内『放屁論』(『風来六部集』所収)国文学研究資料館
この著者は安永三年(1774年)に屁を自由自在に操り、大人気になった霧降花咲男(きりふりはなさきおとこ)という男性についても紹介しています。
全然恥ずべき見世物じゃないですよ。屁を操って金を稼げるなんてすごいじゃないですか。
金払って自分の屁を聞きたいと思われることなんて人生でそうそうに無いし、
『放屁論』という書が出版されるほど花咲男の影響力はすごかったのです。
人前で屁をして「笑われている」んじゃないのです、「笑わせている」のです。
明治以降も続く性の見世物ー裸体や局部に価値はあったのか?
『藝界きくまゝの記』にも陰部の見世物に関する記録があります。
明治元年(1868年)に浅草の蔵前にできた見世物の生人形(いきにんぎょう。西洋の蝋人形のようにリアルな等身大の人形)に「裸体美人の入浴」というものがつくられました。
人形は風呂の入り口に腰かけ、局部に手拭をのせてあり、人形の局部を見たい客は、金を払うシステムです。
明治維新後には実際に女性がポーズをとり撮影できる見世物(もはや見世物ではない)ができ、
お金を積むと、女性が要望通りの格好で写真を撮れるという、どこか現代でも聞いたことがあるようなビジネスができたようです。
これらの見世物について調べてみるほど、江戸時代から明治時代の何年かの間に銭湯が男女混浴だったということに驚きを隠せません。
たまにツイッターで「江戸時代は混浴であり、男性は女性の裸体を見慣れており全く興奮しなかった。しかも女性が長屋で赤ん坊に乳を与えたり、行水することもあり、裸は見慣れた光景だった。」とか語る方がいます。
しかしリアルな生人形の局部を見たくてお金払う方が明治元年の記録に出ているし、性の見世物はたくさんありましたけど、
それでも人々は裸を見慣れており、異性の裸体に何も感じなくなっていたのでしょうか。
それとも裸体にそれほど関心はないが、股に埋まっている女性器にはものすごく関心があったのか。
ならば女性の入浴シーン、しかも人形の入浴シーンの見世物が存在したのは何故でしょう。
明治になってもしばらく各地で混浴は存在し、人々は他社から受ける性的な眼差しに、どのように折り合いをつけていたのか気になります。
性器に関する見世物は本当に挙げるとキリがあげません。
セックスを見せるむごたらしい見世物
究極はセックスを見せる見世物までもが存在しました。
こちらも『藝界きくまゝの記』より、宝永三年(1706年)に伊勢参宮の道中にて若い男女の交合を見世物にした記録があります。
又これハ敢て芸道といふにもあらねど、宝永三丙戌年伊勢参宮の道中に若き娘と若き男と野合せしを捕へて、 交合せしまゝに見せ物に出したることあり、 面白き見せものとて爪も立たぬ大入を為し、ワッワといひて冷笑する、 その惨(ムゴ)たらしさ実に目も当てられず、この娘ハ備後福山なるれつきとした家のむすめにて二八ばかりの振袖姿、 男ハ二十五歳なりしといへり |
二八とは2×8=16つまり16歳くらいの振袖の女性と、男性は二十五歳くらいの男性が交合し、周囲がわっわと冷笑しているという光景です。
この見世物は宝永七年出版の『御入部伽羅女』という浮世草子にも記載があります。
他の記録でもこの見世物について書かれており、本当に日本でこの見世物が行われていたことは嘘のような実なのでしょう。
実際にこの女性の出身などは、見世物で人を呼ぶための嘘の可能性もあります。
この内容をSNSで投稿したところ当然ですが「むごたらしい」という感想が返ってきました。
確かにむごたらしい光景なのですが、この見世物がなぜ伊勢参宮の道中で行われたのでしょうか。
江戸時代には伊勢参宮の際に男女交合をすると男根が膣から抜けなくなるという俗説が存在しました。
そのネタと絡めたため伊勢参宮の道中でこの男女交合の見世物が行われた可能性もあります。
それとも単純に旅人の往来が激しい伊勢神宮の道中での金儲けなのか。
明治時代にもセックスの見世物があった
明治時代にも男女交合の見世物は存在しました。
明治五年(1872年)二月の名古屋飛保村曼荼羅寺開帳に様々な見世物が行われ、その中のひとつに男女交合の見世物がありました。
「県下二月朔日ヨリ以来開帳アル、凡そ四十六ケ寺ナリシ。 右開帳ノ内丹羽郡飛保村曼陀羅寺ハ格別発向ナリ、観セ物殊ニ多シ。就中奇ナルハ男女ノ交接(マジワリ)ナリ。 幕ヲ開ケバ一幅ノ活春画男女皆裸体両身一塊ト実ニ殷紂沙丘ノ後三千年間曾テ公然ト見ル者ナシ或人日、 比ノ如キハ文明開化ト云ハン歟将タ自主自由ノ権トセン歟。」 〈愛知新聞 第十一号 明治五年(1872年)四月より抜粋〉 |
新聞では文明開化と反するとこの見世物が批判されています。
ちなみに愛知新聞第十二号には、この見世物の結末が掲載されています。
県下飛保村曼荼羅寺ニアリシ男女交合ノ観セ物ヲ東掛所ニ開場セシガ、両日ニシテ県庁ヨリ召捕ラレタリト。 〈愛知新聞 第十二号 明治五年(1872年)五月より抜粋〉 |
この男女交合の見世物は名古屋市内東掛所で興行し、逮捕されたようです。
再びこの見世物を行うくらいですから、もしかしたらそこそこ客が来て儲けていた可能性もあります。
文明開化と言われど、人々の意識がすぐに対応できるわけではありません。
従来取り締まられては再発を繰り返し、時に黙認されていた江戸時代の見世物が、明治期になると
次第にメディア上で批判され取り締まりが強まっていくことは新刊に掲載した女相撲でも触れました。
性の見世物はずっと人々の好奇心や欲望に支えられてきました。
今考えると「有り得ない」が「有り得た」時代が、この日本に存在したことが時々信じられなくなりますし、
今も世界中で「有り得ない」ことが「有り得て」、起こり続けています。
江戸時代から性に関する見世物は存在し、それを「恥ずべき」「むごたらしい」と感じ、当時の皆々が受け入れていた訳ではないことや、
時代の流れとともに縮小していった性の見世物が、かつては寺社の周りでも行われていたことは、このコラムを書くまで想像できませんでした。
しかしながら、わたしが書いた性の記録はごくごく一部の情報で、
この日本ではわたしたちが想像できないほどの性のコンテンツが商売になってきたのでしょう。