佐渡の「のろま人形」が観たかった
佐渡の「のろま人形」の存在を知ってから、ずっと生で観劇したいと思って、はや数年。
のろま人形の起源は寛文•延宝(1661-1681)年間に江戸の野呂松 勘兵衛という人形遣いが道化人形をつかったことが始まりとされ、「のろま」は人形遣いの「野呂松」の略とも言われています。
古くは浄瑠璃芝居の合間の芝居として演じられ、品のある浄瑠璃の間に「わらい」を挟むことで見物を喜ばせたと言われています。
現在は重要無形民俗文化財に指定されています。
昭和40(1965)年7月号の『民藝』(日本民藝協会)に掲載されている佐渡郷土芸能研究家の新井実によると、
佐渡でのろま人形が広まったきっかけは、享保の中期に新穂村八王子の百姓、須田五郎左衛門が能太夫になった友人に触発されて、
都で流行っていた古浄瑠璃の説経節を習得して太夫になり、上方人形を持ち帰ったのが始まりと述べられています。五郎左衛門、でかした!
佐渡の人形芝居は「説経」、「のろま」、「文弥」と3種類あり、すべて「のろま」と呼ばれていたこともありました。
事実、昭和32(1957)年9月出版の『美術手帖』では今でいう説経人形が「のろま人形」として紹介されていました。
佐渡の予習を念入りにして、やっと念願の佐渡に渡りました!
何を食べても旨いし、地元の方々は沁みるくらい親切でした。
小木港から移動し、新穂地区の公民館で新穂地域づくり協議会伝統部会により行われた令和6(2024)年7月の上演会に行ってきたのですが、
隔週に渡り春駒とのろま人形のセットで上演が行われていました。
春駒は佐渡に伝わる郷土芸能で、派手な衣装で各家々の門内に新春を寿いで回り、現在では祝い事の場面で披露されています。
『島国の唄と踊』(昭和2〈1927〉年刊行)によると、もともと春駒は醜男の面を付け、股の所に馬の頭を付け、うしろには馬の尻をつけて、
あたかも馬に乗ったような様子で鈴や扇子を持って飛び跳ねる舞だったようで、江戸期には各所で見られたようです。
江戸期の浮世絵で「春駒」といえば、美しい女が片手に馬の頭部をつけて美しく舞う様子が描かれています。
新穂地区の上演会の主催者は「昔は男が舞っていた」と何度か言っていたので、時代がくだり、性別や時代によってその衣装にも変化があったのかもしれません。
舞うときの鈴の音や太鼓の囃子がとても祝いのムードに合う楽しい舞でした。
小木の民宿に泊まったときに民宿の奥様に春駒を観に行くと言うと、「春駒はお祝いの時にするやつだね、春駒大好き」と言っていたので、
佐渡に住む人にも春駒は縁起を担ぐものとして親しみがある舞のようです。
上演会ではござが敷かれた前列と、椅子が置かれたエリアがありました。
主催の方によると、昔はござに座っての観劇スタイルでしたので、観客はのろま人形を見上げるように観劇しました。
そのため人形は若干客を見下ろすそうに下向きになっています。
意識して観ると、確かに上演中、人形がやや下向きでした!
私が観たのは「そば畑」という演目。
女性の人形は「お花」、他にも「下の長」、ぽけっとしてるが良い奴の「木之助」そしてムジナ(狸)が登場しました。
【そば畑のストーリー】
田畑を多く所有する下(しも)の長者は、そばも栽培している。
収穫期が間近になり、ムジナらしきものに畑が荒らされていることに気が付く。
ある日、下の長者は畑を守るために夜番することにし、妻の”お花”に留守を頼んだ。
途中で用事があるのを思い出し、隣に住む木之助のところに寄り、自分の用事が終わるまで、代わりに夜番をしてほしいと依頼した。
仕事を受けた木之助は畑を荒らしにきたムジナを生け捕りにしようと追いかけるが逃げられてしまう。
しばらくしてお花が長者のために夜食を持って畑に来ると、木之助はムジナが女に化けたと思い込み、お花を取り押さえる。
ちょうどそこに用事を済ませた長者がやって来て、助けを求めるお花を発見し、驚いた長者は木之助と揉み合いになり、ついには
木之助を裸にしてしまう。
他にも「木之助座禅」「お花の嫁入り」「五輪仏」などの演目もありますが、オチは木之助がヘマをして裸にされ、放尿するオチになります。
「そば畑」でも笛の囃子とともに赤い褌の木之介が観客に向かって思いっきり放尿し、子供も大人も大爆笑でした。
昭和初期の古老の証言では「木之助の放尿を浴びると子供の無い女もやがて子供が恵まれて、新婚夫婦も放尿を浴びに来る」と言われていたようです。
昔は男根から水を出す時に口で吹いて出していたそうですが、今はこのように手で圧をかけてチューブから噴射しているそうです。
今回の観劇で使われた人形は寺のお坊さんの手作りとのことで、一点しかない貴重な人形でした。
ちゃっかり人形を動かせてもらいました。手首のスナップで人形の頭を動かすのですが、やってみると思ったより難しい。
のろま人形の醍醐味は人形遣いの方々の佐渡弁でもあります。
文化は残ったとしても徐々に薄まる部分、変化する部分があり、いつまでも残るものではありません。
わざわざ佐渡に渡り、観に行って本当によかったです。
のろま人形を見に行った新穂地区は絵師の土田麦僊(つちだ ばくせん)の故郷であり、新穂歴史民俗資料館では彼の作品や貴重な人形の展示もありました。
余談ですが「そば畑」の演目に出てきたムジナがやけにリアルだなーと思っていたのですが、人形を見せてもらうとガチの毛皮でした。そりゃリアルだわ。
のろま人形が欲しくなってどこかで買えないのか上演会で質問したのですが売ってないとの返答でがっくり・・・
昭和には作られていたのろま人形の頭部の民芸品も現在の土産売り場では見つけられませんでした。
次回は「つぶろさし」の祭りを見たいと思い、来年の予定を考えるのが楽しみです。