いくつもの高野山の禁忌
紀伊国(和歌山県)の伊都郡の東南部、大和国(奈良県)の境に位置する標高約1,000m級の峰々に囲まれた山上盆地に広がる高野山。
弘仁七(816)年に弘法大師は嵯峨天皇に修禅の地を賜わることを願い、高野山をいただいたという。
弘法大師はその翌年に高野山全体と中央壇上に対する結界を行なっている。
かつて、この山は女人禁制だった。
高野山の女人禁制の解禁は明治五(1872)年である。
2024年12月末、会社の最終営業日まで残業し、ほぼ寝ていない状態で東京から新幹線に乗った。
新大阪駅からなんば駅に移動し、特急こうやに乗る。
極楽橋駅を降り、ケーブルカーで高野山駅まで着くと、そこからはバスに乗る。
わたしの目的は高野山の女人道を歩くこと。ただそれだけ。
この日のために登山靴に装着するチェーンスパイクも買った。
女人道(にょにんどう)とは高野山の地に入れない女性らのために、高野山の外周の尾根道に拓いた道である。
女人禁制の土台にあるものは、聖なるものへの「恐れ」であるという。
その他にもこの地には禁忌があり、例えば「魚、獣肉の担負往来と販売や食の禁止」「飲酒の禁止」
「犬以外の動物の飼育の禁止」「春画などの猥雑な物の売買の禁止」などである。
ちなみに弘法大師は近世では男色伝授説の広まりにより、春画の男色ネタとして欠かせないものになっていたことは余談である。
「犬以外の動物の飼育の禁止」については何故なのだろう。
春画ールの想像なのだが、この地の狩場明神(かりばみょうじん)は丹生明神(にうみょうじん)を母とする御子神であり、
狩場明神と会った弘法大師は明神の使者である黒白二匹の犬により無事に高野山に辿り着けた伝説がある。
そのため犬は飼育OKなのではなかろうか。
その黒白二匹の犬は狛犬として建立されたそうだ。
狩場明神は高野山の地にいる護法天狗高林坊ではないかという説もあり、調べるほどに興味深い地である。
平安時代から鎌倉時代の高野山ではこれら禁忌を犯すと天変地異が起こると信じられていた。
どうしてもこの地へ参りたかった女性たち
しかし女性のなかにはどうしても高野山の地へ参りたいと願う人もおり、
鎌倉後期の『後宇多院御幸記』では男性に変装しても入山している記録がある。
高野山を開いた弘法大師はこの地の聖地と教法維持のために女人禁制を設け、
女人禁制は女性を蔑視していたからではないことに注意したい。
高野の伽藍(がらん)地には様々な地域に住む人が訪れる。
そのため伽藍地の周囲には主要な七つの登山路が整備されていった。
天生年間(十六世紀後半)より七つの登山路にはそれぞれ女人堂があり、それより先には女性は立ち入ることができなかった。
女人堂は聖域の結界内に入れない女性たちのために参籠(さんろう)、遙拝(ようはい)するための施設であった。
女人道はそれら女人堂を結ぶ巡礼路である。
標高の高い登山道にあるため、伽藍地や奥の院を望拝できたそうだ。
しかし女人道にあるろくろ峠は現在は景色がほとんど見えない。
かつては壇上伽藍をここから望むことができ、女性たちが首をのばして伽藍を眺めたため「ろくろ峠」と名付けられた。
高野山の地に訪れる女性たちは女だけで来る者は少なく、夫などの家族や親戚、男子や男の供を連れて訪れることが多かったようだ。
夫は伽藍地まで行くが、妻はその先には行かず、女人堂で宿泊した。
わたしが行った2024年12月末は整備のため女人堂バス停が使えなかったので、千手院(東)バス停より登山を始めた。
気温−2℃でうっすら雪が積もるなか、不動坂口女人堂に到着。
不動坂口女人堂は現存する最後の女人堂である。
建築年代を特定する史料はないが、様式や建築技法より室町時代後期までその年代を推定し、貴重な建築物となっている。
道路を挟んだ向かいの登山口の階段を登り、本格的な登山がはじまる。
雪で登山口はわからず、最初はこのアスファルト道路を進んでしまった。
女人道は狭く、人とすれ違うのが厳しい幅の道もある。
ほどなくして谷上女人堂跡の看板がある。
当時はここから間道を歩けば男性らはすぐに壇上伽藍へ行けたようだ。
現在の女人道は登山道は歩きやすく整備されているものの、女人禁制の時代はどのような状態だったのだろう。
健脚でも女人道は大変な道であっただろう。
登山道である女人道には雪があるもののチェーンスパイスをつけなくても歩ける程度なので助かった。
その日、歩いている人は少なく、計4人ほどとすれ違った。
984.5mの弁天岳に到着。山頂には高野弁天のひとつ、嶽弁天社が祀られている。
絶景とまではいかないものの冬の晴れ間と少し景色を楽しめる。
女人道は基本的に眺めはよくない。
女人道を歩いた先にある弁天岳が絶景のピーク。
その他はひたすら森林のなかを歩くのみ。
女人道を歩くと重要文化財の大門に出てくる。
大門は元禄元(1688)年に火災に宝永二(1705)年に落慶した。
その後、解体や修理を経て現在の大門になったのだが、右下に映る緑丸で囲んだ人間の大きさと比べると、
この大門がどれほど大きいかわかるだろう。
女人禁制の時代も大門までは女性は行くことができた。
大門から金剛峯寺までは意外と近い。
大門で夫を見送りした女性もいたかもしれない。
弘法大師の御母公の滞在した女人結縁の寺・慈尊院へ
九度山駅より徒歩30分ほどのとこにある慈尊院は、弘法大師の母公を祀る女人霊場であり、国宝の弥勒菩薩を祀っている。
高野山からそれほど離れていない土地なのに、九度山には雪がまったく積もっていない。
慈尊院は、子宝、安産、育児、授乳、病気平癒など広く祈願されており、おっぱい型の絵馬で有名である。
乳がん平癒のために各地から女性やそのご家族が訪れるようです。
わたしも乳房の形のお守りを授かりました。
弘法大師の母公は大師を慕い、自らも登山を試みたがその度に不思議なことが起こり、
それもまたこの地に女人禁制が敷かれる一端となった。
それらの現象は、母公が大師の制止を聞かず、登山を試みようとしたので、大師が袈裟を石上に置き、
これを超えてはならないと伝えたところ、母公はその袈裟をまたいだ。
すると八十歳ほどであった母公から月水(生理)がはじまり、その血が袈裟に流れた。
袈裟は燃え上がり、石は散り、それらが火の雨となり降り注いだと伝わる。
聖なるものを、女のものにより害したのだ。
高野山での女人禁制が解かれたきっかけは、明治五年に京都で開催された第一回京都博覧会で外国の方の来訪を見込んだからである。
女人禁制は国際的に見て時代錯誤だと思ったのである。
女性を解禁してから徐々に女性がこの地で住むようになり、
明治六(1873)年に高野山内の町家の木炭店で最初の山内結婚が行われた。
女人禁制の時代を乗り越えて
奥の院の御供所では弘法大師の生身供(しょうじんぐ)を御供所で作り、毎日朝6時と10時の二回、僧侶が御廟に運んでいる。
簡単に言うと弘法大師のためのお食事を御供所で用意している。
その光景を一目見たいと思い、朝5時に起き、ゲストハウスから奥の院へと向かった。
12月の高野山は骨身にこたえる寒さだ。
御供所のなかからは、弘法大師のためのお汁の良い匂いが流れてき、お香の微かな香りと冬の空気のなかで混ざり合う。
御供所で調理され櫃に入れられた弘法大師の食事は僧侶が嘗試地蔵前に供えた後に、御廟前の燈籠堂まで運ぶ。
燈籠堂内部で朝のお勤めに参加しながら、かつて女人禁制だったときのこの地のことを考えてしまった。
自分が奥の院の中にいることがとても不思議だった。
メモ
〈参考文献〉
・日本遺産「女人高野」調査研究報告書 令和5年3月 女人高野日本遺産協議会
・『比叡山と高野山』 景山春樹著
・『高野山信仰の研究』 日野西眞定著
・『女人禁制 伝統と信仰』 阿吽社